地下鉄に乗っていると、車両の騒音のために、すぐ隣の人の話し声もよく聞こえないのに、向かい側に乗っている英米人の会話の声だけは耳に入ってきた、という経験はありませんか? これは日本だけの現象ではなく、たとえばパリの地下鉄などに乗っていても、同じような経験があります。なぜでしょうか。格別、英米人は声の大きな人ばかりなのでしょうか。
それは、息の量に支えられた声の強さ、とりわけ子音の強さがもたらす結果です。ここは、音声言語としての日本語との大きな違いです。英語の発音では、なによりも子音(とくに破裂音や摩擦音)の明瞭さが求� ��られます。英語では、子音は母音と母音の間に割り込んで分断し、音のブロックを作ります。そのブロックのつながりが語と文を作るのです。いわば、連結器でつながれた車両の列からなる列車かバスのようなものです。
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ところが、日本語はそういう風に発音しません。ちょっと注意すればわかると思いますが、普通の会話をするにあたって、まず腹の底まで息を吸い込んでからはじめる人は希で、通常は肺活量の3分の1くらいの息でしゃべります。息のスピードは穏やかでゆるく、したがって摩擦音や破裂音も、母音の流れを完全にせき止めるのではなく、せいぜいその方向を変える程度の役割しかしません。日本語の音声は、いわば悠々と流れる母音の川のようなものであって、子音は両岸の岩のようにその向きを変えるきっかけなのです。口や舌の形はあまり大げさに動かさない。その結果として、やわらかく、ないし、ぼそぼそと聞こえる。これは地声の大きさの� �いではなく、子音に込められる息の量の違いである、というのが私の考えです。
インド人の英語を聞いたことがありますか。母音はアイウエオ風で、かつ独特のイントネーションがあり、我々にはあまり上手には聞こえませんね。でも、ネイティブにとっては、日本人よりインド人の方が聞き取りやすいようです。その理由は、子音の勢いと強さにあると考えられます。
息というのは身体の動きで、無意識の習慣の世界に属します。日本語の息の体勢になれた私たちが英語の子音を明確に発声するためには、腹式呼吸に頼るしかない。そして、それを無意識の習慣に持ち込むまで、繰り返し練習が必要だ、というのが私の経験です。
第三の原則です:
「英語を話すときは腹式呼吸で子音に強さを与えろ」
さて、第四の原則ですが、これが微妙で、伝達するのが難しい。それは、言語の目的と自他の区別に関することで、日米両文化の最深層にかかわる問題だからです。
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まず、英語は、「言語は意思伝達の主要な手段である」という明確なテーゼの上に立っています。そんなの当たり前じゃないか、とおっしゃるかもしれません。では、日本語の世界は、「言語は意思伝達の主要な手段である」という前提の上に運用されていますか。以心伝心、問わず語り、阿吽の呼吸が最上とされていませんか?
私の若い頃、世界的スターだったデビッド・ボウイという英国人ロック歌手が来日して、雑誌のインタビューで、こう発言しました。「言葉とは、コミュニケーションのための最も不確実な手段である。」--これは、おおかたの日本人読者なら、まあ同意するでしょう。しかし、これは英語の世界では、あり得ないほど非 常識な挑発的・逆説的発言なのです。それをあえて言うのがボウイという人の立ち位置だったのでしょう。彼は視覚とかリズムとか身体的メッセージが、言語に勝るとも劣らぬ重要なメディアである、と考えていたわけです。
英語の発想の根底には、自己と他者を区別する感覚があります。自己と非・自己の区別、ではありません。そんなことなら、幼児期を卒業すれば誰もが身につけます。また、ウチとヨソの区別、でもありません。これは日本語世界の発想であって、自分の所属する集団(ウチの会社)と、それ以外の人々(ヨソの連中)の区別です。英語ではまず、主語としての大文字の"I"がある。そして、意志を持つ相手としての"you"がある。この両者は別の人間、優劣はあれども対等な別の個人であって、 互いに意志も了解事項も異なっている。その間を橋渡しする、ほぼ唯一無二の手段として、言語がある。
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だから、英語では、相手が理解できるように、発信者側が努力する責任を負います。無言の共通の了解事項(これをcontextというのですが)は最小限であるため、あらゆることは明確に、specific に表現する必要がある。同じ家族だろうが、同じ排他的クラブ員同志だろうが、この原則は徹底します。
日本語は、あまり輪郭のきつい、生々しい表現は歓迎されません。そこで形容詞を使って「先日は大勢の方が集まって」「大したものはございませんが」「それなりの評価をいただきました」といいます。ところが英語では、具体的で客観的を良しとします。「先週の水曜日には270人が参加して」「トップクラスの料理を用意しました」「85%の顧客がAランクと評価した」・・こういうのが、英語に求められる表現です。
そして、何よりも互いの意志ははっきりと表現しなければなりません。「・・は難しいと思います」(I think it is difficult to ...)というのは断りの意思表示にはなりません(よほど相手が日本人相手の経験を持っていれば別ですが)。断りたければ、「我々は・・したくない」と言わなければなりません。日本人は"Yes, but"というセリフが得意だと、よく言われます。これは、意見対立を回避すべきであるという日本語の運用原則が生む現象です。一方、英語は事実本位なので、YesはYes、NoはNo。意志の対立という事実があったら、まずそれをテーブルにのせます。そして、さて、じゃあそのGapをどうやって詰めていこうか、という話になるのです。
会話の雰囲気を保ちたいが為に、内心は納得していなくても、にっこり笑顔で"Yes, yes"などと言うと、後で「お前はあのとき"yes"と言ったではないか。あれは嘘だったのか」と反撃されてしまいます。英語は事実本位なので、逆に「嘘つき」"Liar"は最大の罵倒になります。英米人に面と向かって冗談のつもりでliarなどと言おうものなら、泥棒呼ばわり以上に、喧嘩になるでしょう。「嘘も方便」という日本人の価値観とは大違いです。社交辞令とか誇大広告とかは日英どちらの世界にも蔓延していますが、その位置づけが違うのです。
少し話がずれてしまいましたが、第四の、そして最大の原則です。
「英語とは、自他を明快に区別した上で、言葉こそ事実本位に意思疎通を行うための最上の手段である、との発想の上に立って運用される」
これは運用原則です。やろうと思えば英語でだって、いくらでも曖昧模糊とした会話はできます。しかし、それは英語らしくない。英語らしくない英語を、いくら明瞭な息と発音で話そうとも、ニセモノでしかありません。
Kさん。多くの白人社会では、本物とニセモノは峻別されます。ニセモノは、かりに憐れまれ、笑って許されているようでも、裏では軽蔑され拒絶されるのです。このご返事を書きながら、私自身、なんだか本物からどんどん遠ざかってきているのではないかと、反省の気持ちが増してきました。もう少し基本に戻って、ぜひ学びなおしたいと思います。K� �んも、どうか上の四原則をしっかりと理解いただいた上で、ぜひ有益なる意思疎通を行われることを願ってやみません。
(追伸:私は若い頃、中津燎子という人の「なんで英語やるの
」を読んで大きな影響を受けました。上に掲げた4原則も、本書の冒頭に書かれている原則を、私なりの経験を通じて咀嚼し言いかえたものです。賛否の大論争を巻き起こした本ですが、興味があれば読まれることをおすすめします)
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